
日本に長く暮らすようになってから、韓国のテレビ番組やYouTubeを見ていて、ふと立ち止まってしまう瞬間がある。
誰かが結婚すれば、家はどうやって用意したのかと尋ねる。子どもがいなければ、予定はあるのかと気にする。転職すれば、給料や待遇がどう変わったのかも当たり前のように聞く。
以前の自分は、こうした場面を特別だとは思っていなかった。親しい間柄だから聞けるのだし、心配しているからこそ事情を知りたくなる。むしろ何も聞かれなければ、自分に関心がないのか、まだ十分に親しくないのだと感じることさえあった。
でも今は、同じ質問が少し違って聞こえる。
「相手がまだ話していないのに、聞いてもいいんだろうか」
最初は、韓国が変わったのだと思っていた。でも実際に変わったのは韓国ではなく、その場面を見ている自分の基準のほうだった。
韓国では、事情を知ってこそ親しいと感じる

韓国では、相手の暮らしにどれだけ関心を持っているかが、そのまま関係の温度として表れることがある。
ちゃんと食べているか、最近の仕事はどうか、結婚はいつ頃かと尋ねる。誰かが辛そうにしていれば、頼まれる前から動き出すこともある。
そのほとんどは、悪気があってのことではない。心配だから聞くのであり、親しいから関わるのであり、力になりたいから動くのだ。
だから、個人的な話をまったくしない関係は、どこか上辺だけのもののように感じられてしまうことがある。
「そんなことも聞けないなら、何が親しい仲なんだ?」
この一言には、韓国人が親密さをどう捉えているかが表れている。お互いの事情を知り、必要なときには相手の暮らしに一歩踏み込むこと。それが韓国語でいう「情(정)」であり、関心であり、近しい関係の証だと教わってきたのだ。
ここでいう「情」は、日本語の「情け」が持つ同情やあわれみに近いニュアンスとは少し違う。もっと広く、相手を気にかけ、踏み込み合う人と人との結びつき全体を指す言葉として、この文章では使っていきたい。
日本では、聞かなくても親しくなれた

日本で出会った人たちも親切だった。困っているときには助けてくれたし、頼めば誠実に応えてくれる人も多かった。
ただ、相手がまだ話していない事情まで尋ねたり、必要だろうと決めつけて積極的に関わってきたりすることは、韓国に比べると少なかった。
助けが必要そうに見えれば、まず「お手伝いしましょうか」と聞く。そして相手が「大丈夫です」と答えれば、その言葉をそのまま受け止める。
韓国では、「大丈夫」と言われてもあと一、二回念を押して聞くことが、情として伝わることがある。日本では、一度の遠慮も相手の意思として受け止められることが多かった。
最初は、その距離感を少し冷たく感じることもあった。でも長く過ごすうちに分かってきた。それは無関心なのではなく、相手が語っていない領域に、むやみに踏み込まないための態度なのかもしれない、ということが。
もっと驚いたのは、個人的な話をあまりしなくても、十分に親しくなれるということだった。お互いの経済事情や家庭の事情を詳しく知らなくても、一緒にいる時間が心地よいことがあった。すべての困りごとに先回りして関わらなくても、いざというとき頼れる相手になれることがあった。
韓国と日本は、聞いてもいい範囲が違うだけではなかった。どんな関係を「親しい」と感じるか、その基準そのものが違っていたのだ。
同じ一言が、感謝にも失礼にも変わるとき

以前、日本人の友人から聞いた話がある。
その友人は韓国人女性と結婚し、韓国を訪れる際に義母へ贈り物を用意していった。ところが贈り物を受け取った義母は、こう言ったという。
「こんなの、わざわざ買ってこなくてもよかったのに」
友人はその言葉を聞いて戸惑ったそうだ。
韓国人である私には、その言葉の奥にある気持ちがある程度想像できる。韓国では、この表現は「自分のためにここまでしてくれなくてもよかったのに」という、少し照れくさい感謝の気持ちとして使われることがある。
でも、友人の耳に届いたのは、その奥にある気持ちではなく、実際に発された言葉そのものだった。日本では、贈り物が気に入るかどうかにかかわらず、まず感謝の気持ちを伝えることが礼儀だと感じられることが多い。心の中でどう思っていたとしても、それをそのまま口にして相手を戸惑わせることは、失礼にあたると考えられているからだ。
反対に韓国では、心にもないことを言って一律に「ありがとう」と伝えることを、かえって形式的だと感じる人もいる。親しい間柄なら、もう少し率直であってもいいと考えるからだ。
この場面に限って言えば、韓国では率直さが誠実さとして受け取られ、日本では表現への気配りが礼儀として受け取られていた、ということなのだと思う。
私は今でも、あのとき義母がどんなつもりだったのか正確には分からない。ただ、同じ一言が、ある人にとっては照れくさい感謝であり、別の人にとっては差し出した気持ちを拒まれた経験になり得るということは分かった。
「そういうつもりじゃなかった」という説明だけでは十分ではない理由もそこにある。悪気がなかったとしても、相手が受けた戸惑いそのものが消えるわけではないからだ。
温かさが、義務に変わる瞬間

私は、韓国の人間関係にある温かさが好きだ。
誰かが困っていれば真っ先に気づき、体調を崩せば食べ物を持って行き、辛いことがあれば一緒に解決しようとする。困りごとを、その人ひとりだけの問題にしておかない力がある。
ただ、温かさが大きい分だけ、寂しさも大きくなり得る。
最初から見返りを期待して助けているわけではない。むしろ、助けなければ自分の気持ちが落ち着かなくて動く場合のほうが多い。それでも人である以上、多くの時間と気持ちを注いだのに何も返ってこなければ、寂しく感じることもある。
「あのとき、あそこまでしてあげたのに」
その気持ちは一度の行動で終わらず、相手が自分をどれだけ大切に思っているかを測る物差しになってしまうこともある。
食事の支払いのときも似ている。誰かがおごると言えば、実際に払うつもりがなくても財布を出す仕草を見せるのが礼儀だと感じるし、最初から割り勘にしようと言えば、そっけなく見えないかと気になる。払いたい人が払い、割り勘にしたい人はそうすればいいだけのはずなのに、関係の「形」が気持ちより先に来てしまうことがある。
情から始まった行動が、いつのまにか誰もが守るべき作法になり、その作法に従わない人には「情がない」という評価がついてしまうのだ。
汁物がなくても、一食は成立する

こういう文化のなかで、不便なところだけ直して、良いところだけ残せばいいのではないか。言葉にするのは簡単だが、実際には難しい。親密さの感じ方は、頭で決めたルールではなく、長い時間をかけて体に染み込んだ感覚だからだ。
韓国人にとっては、どれだけ豪華な食事をしても、汁物がないとどこか物足りなく感じることがある。関係も似ている。お互いの事情を分かち合わなければまだ十分に近づけていない気がするし、困っているときに自分から動かなければ情が足りないように感じてしまう。
でも、ある文化では汁物がなくても、それだけで十分な一食になる。個人的なことを詳しく聞かなくても、割り勘でも、相手の遠慮をそのまま受け止めても、十分に温かく親しい関係になれる。
私がこう考えるようになったのは、日本が韓国より優れていると感じたからではない。日本にも、距離を保とうとするあまり、本当に助けが必要な人に自分から手を差し伸べられないという息苦しさがある。
ただ、韓国の外で長く暮らしてみて、韓国の中にいたときには当たり前すぎて見えていなかったものが、見えるようになってきた。あまりに慣れ親しんだものは、文化としては見えない。ただ、人として当然守るべき礼儀のように感じられてしまう。だから、違うやり方で振る舞う人を、情がない、心が狭い、自分を大切にしていない人だと判断してしまいやすい。
私は、韓国の温かさがなくなればいいとは思わない。相手に先に気づき、自分の時間や場所を差し出し、誰かの困りごとを一緒に背負おうとする力は、これからも残ってほしい。
ただ、その温かさの隣に、別のやり方も一緒に置かれるようになればいいと思っている。
個人的な話をしなくても無関心ではなく、割り勘にしても薄情ではなく、一度断った相手にもう一度勧めなくても情が足りないわけではない関係。助けても同じ形で返ってこなかったからといって関係そのものを疑わず、関心を向けながらも、相手が話したくない部分はそのまま残しておける関係。
日本で過ごした10年間で私が得たのは、日本のほうが優れているという確信ではなかった。私たちが当たり前だと信じてきた親密さも、数えきれないやり方のうちの一つに過ぎなかったという気づきだった。
汁物がなくても一食が成立するように、情を表すやり方もひとつだけである必要はない。
韓国の温かさは残しながら、その温かさを証明するために互いが無理をしなくてもいい関係。
私が望む変化は、その程度のことだ。

文章:My Language Trip
イラスト:My Language Trip (AI-assisted)